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編集スタッフの呟き
市川の寺まち、行徳に行く。
ヘェー、市川って案外お寺が多いんダナァ。
疲れたら、市川妙典サティに映画館もあるし…。
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茅葺き屋根の山門・妙栄山妙好寺
八幡南口から行徳方面行きのバスに乗って、交番前の行徳橋南詰バス停を下り、江戸川沿いを下流方向に行くと道が右へ折れる。ここはかつての成田街道で、この道に沿って落ち着いた妙典の家々が軒を連ねている。妙典の地名は、法華経の経典が日蓮の唱えた「南無妙法蓮華経」のごとく妙なる経典であるところからついた地名という。少し歩くと右に、日蓮宗の妙好寺の茅葺きの山門が目に入る。切妻茅葺の四脚門の山門は、平成9年に解体修理されたもので、市指定文化財。土用の一の丑の日には、頭痛・カンの虫の虫封じの祈祷や、ほうろく灸加持が行われる。檜山騒動の大立物、南部藩士、通称・相馬大作がここで宿敵の津軽藩士を討つべく旅絵師に姿を変えて時機をうかがったとされる。
ぜんそく封じの寺・顕本山清寿寺
妙好寺をでて成田街道を行くと右手に「ぜんそく封じ加持、旧十五夜」と書かれた黄色い看板が見える。清寿寺の入口だ。境内でひときわ目を引くのは、6匹の子猿を抱えた母猿の石像。じっと見つめていると、母猿の懸命な気持ちが伝わってくるようだ。台座に「おちか三歳」と彫られ、「おちか」とは猿の名前だそうだ。むかし、子を宿した猿を鉄砲で撃ち殺した人の3人の娘の耳が聞こえなくなった。その後、その家系に耳の聞こえない娘が幾人もでた。占い師にみてもらったところ、猿のたたりと…。親子猿の姿を彫って供養したのが、この石像。耳の神様だという。
宮本武蔵ゆかりの名刹・海巌山徳願寺
清寿寺をでて成田街道を行くとバイパスにでる。信号を渡って200メートルほど行った右側、広々した駐車場の奥が徳願寺会館だ。ここはもう徳願寺の境内だが、本堂へはもう少し先の山門から入りたい。
徳願寺は埼玉県鴻ノ巣の勝願寺の末寺で、もと普光院と呼ばれる草庵だったが慶長15年(1610)聡蓮社円誉不残上人が新しく堂宇を建てて寺院とした。寺名も、徳川家康の帰依により、徳川の徳と、勝願寺の願をとって徳願寺と名付けられた。本尊は、北条政子が運慶に彫らせたという3尺2寸の阿弥陀如来像。この像は徳願寺の二世・忠山上人が江戸城三の丸に安置されていたものを、本尊として移したという。また、三代将軍家光から本尊供養料として十石の朱印地が与えられたという。
徳願寺の門前に、永代橋溺死供養塔と大きなお地蔵さんが並んで建っている。この供養塔は、文化4年(1807)8月15日、深川八幡の祭礼に沢山の人が見物に出かけ、その重みで永代橋が崩れて多数の死者がでた。その供養のために日本橋成田山講中の人たちが建てたものである。参道を入ると正面に山門、右手奥には袴腰の美しい鐘楼がある。共に安永4年
(1775)の建造。山門の仁王像は、明治の初め、葛飾八幡宮の別当寺・法漸寺から移したもの。鐘楼の鐘は戦時中に供出されたが、昭和63年、新しく鋳造されて、大晦日には、除夜の鐘をつきに多くの人が訪れ、荘厳な鐘の音を夜の闇に響かせる。
広い境内は、本堂の他、経堂や聖観音菩薩像を安置した身代観音堂などが木々に囲まれて建っている。
山門の左側にあるお地蔵さまは、明治の初めに船橋藤原観音堂から移されたという宮本武蔵の供養塔で、寺宝の武蔵筆のだるま絵や書と共に、剣豪武蔵の伝承を徳願寺に伝えている。毎年11月16日、円山応挙作といわれる幽霊画と共に武蔵作のだるま絵や書が公開される。
枕返しのお祖師さま・常運寺
徳願寺向かい、山門前に「小児虫封じ呪処」と石柱のある常運寺にはいくつかの言い伝えがある。
小田原の北条氏が滅びたとき、野地久右衛門という武士が北条家の姫を守って行徳へ落ちのびて、今の常運寺のある場所に住みついた。頭を丸めた久右衛門は法華経寺へ参詣することを日課としていたが、ある日のこと、法華経寺のお祖師様の像を拝んでいると「自分の像をお前の家に連れて帰って、堂を建ててほしい」という声が聞こえた。そこで、法華経寺に願いでて、ここに堂を建て、お祖師様をお迎えし、この堂を常運寺と名付けたという。その後、面白い言い伝えがある。
向かいの徳願寺の住職は、本尊が安置してある北側を枕にして寝る習慣だったが、ある朝、目覚めると何故か頭を常運寺の方に向けて寝ていた。毎晩のようにこのような不思議なことが起こったので、いつからか常運寺のお祖師様を「枕返しのお祖師様」と呼ぶようになった。
そして、久右衛門が育てた姫は、成人ののち何者かによって常運寺の裏手で殺され不幸な最期をとげた。その後、姫の怨霊のたたりか、その辺りの田を耕した人の家に病人や死人が出たので「死にっ田」と恐れられ荒れ田になった。姫の霊をしずめるために祀った勝姫龍神の祠堂が墓地の奥にある。
法善寺(塩場寺)
常運寺の塀に沿って南に200メートルほど行った左手にある法善寺は、慶長5年(1600)宗玄和尚の開基である。宗玄は塩田をつくって塩焼きの製法を里人に教えたことから塩場寺(しょばでら)と呼ばれる。境内に、松尾芭蕉の詠んだ俳句、「うたがふな潮の華も浦の春」の句碑がある。
房総にただ1基のキリシタン灯籠がある・妙覚寺
法善寺向いの妙覚寺の境内にキリシタン灯籠と呼ばれる石造物がある。東日本では珍しいキリシタン信仰の遺物だ。日蓮宗寺院のこの寺に、何故このキリシタン灯籠があるのか明らかではないが、江戸初期のもので、千葉県ではただ1基のものだという。
七福神が迎えてくれる・正国山妙応寺
天正元年(1573)、日忠上人の開山で、法華経寺の末寺。山門の前に恵比寿、大黒の2神、門内に毘沙門天、弁財天、布袋、福禄寿、寿老人の5神。本堂にお詣りする前に七福神めぐりができる。子育て、水子供養のお地蔵さん、お稲荷さんにペット供養と、願いごとなら何でもOK。
中世この辺りは塩場だった・塩場山長松寺
禅宗、松戸馬橋の万満寺の末寺で、天文23年(1554)溟山和尚の開山。山号は塩場山で、行徳の塩焼きの厳しい労働に耐えた人々の信仰を集めたのだろう。境内正面に六地蔵を彫った石柱がある。これは、長松寺の山門が鬼門にあたるため、正面に六地蔵を建てて厄除けにしたもの。ひっそりとした静かなたたずまいの寺だ。
鷹狩りの家康が通った・権現みち
行徳街道に並行して東側に、昔の農道のような細い道がある。晩年に至るまで鷹狩りや遠乗りを好んだ徳川家康が、東金、成田付近へ行く際、今井の渡しで船を降り、行徳を通り船橋へ出たといわれている。このとき通った道筋を「権現みち」と呼んでいる。権現さまとは、家康公の尊称である。
関ヶ島から本行徳まで続く道の両側には寺院や神社が連なり、昔の行徳の雰囲気を伝えている。この道は行徳街道より古い道で、行徳の静かな散策道だ。
権現みちでちょっと一息・飯沢山浄閑寺
権現みち沿いにある浄閑寺の門前には六地蔵や名号石が並び、境内は、いつ訪れても美しく掃き清められ身も心も引き締まって爽やかで、散策の途中で一息つくのによいところだ。浄土宗・芝増上寺の末寺で、寛永3年(1626)鎮誉上人の開山。本堂に阿弥陀三尊を安置。
旧うどん屋・笹屋
権現みちを進むと、本行徳の鎮守・神明神社の境内がある。そこを右に曲がると行徳街道にでる。左手、街道に面したところに、 「さあ船が出ますとうどんやへ知らせ」「行徳を下る小舟に干しうどん」と川柳にもよまれ、船で来ても陸路で来ても、ここに寄らない人はいなかったといわれるほど繁盛したといううどん屋〈 笹屋 〉の建物がある。安政元年(1854)に建てられた家はどっしりとした構えで、十返舎一九も立ち寄ったという往時の賑わいを感じさせる。笹屋の目印、大田蜀山人が書いたという大看板は、市立歴史博物館に展示されている。
常夜灯
本行徳4丁目のバス停を川辺に曲がると、文化9年(1812)建立の常夜灯が堂々とそびえたっている。行徳は古くから塩の産地として知られ、この塩を舟で江戸へ運んだが、やがてこの航路は人や物資の輸送に使われるようになり、寛永9年(1632)航路の独占権を得た行徳村は、船着場をつくり、そこを新河岸とよんだ。この船着場と江戸小網町を往復した船を「行徳船」「長門船」と呼び、松尾芭蕉、十返舎一九、小林一茶、渡辺崋山ら多くの文人墨客が利用し、新河岸は賑わった。この常夜灯は、江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の講中が、航路の安全を祈願してこの常夜灯を成田山新勝寺に奉納したもので、繁栄した時代の新河岸の面影をとどめている。2000年秋の街回遊展と大晦日には、街起こしを進めている市民らの手で、江戸川の川運のシンボル常夜灯に火が灯された。
おかね塚
笹屋うどん跡から、江戸川堤にある常夜灯を見たら行徳4丁目・浅子神輿店の横を50メートルほど行って右に曲がる。ここにはかつて潅漑用の水路(内匠堀)があった。真っ直ぐ行くと小さな共同墓地がある。正面にある大きな石仏がおかね塚だ。
「吉原の遊女 “かね”は、製塩に使う燃料を運ぶ船頭の一人と親しくなり、夫婦の約束を交わした。年季があけたかねはその約束を固く信じて押切にきてその船頭を待ち続けた。しかし、幾ら待っても船頭は現われず、ついにかねは病に伏して帰らぬ人となった。この話を聞いた吉原の遊女たち100余人が、かねの純真な気持ちにうたれ、供養のために建てた」と言われている。おかね塚の傍らに地元有志が建てた「行徳おかね塚の由来」の碑が建っている。また、おかね塚はもともと押切村と伊勢宿村の村境の庚申塔で、そこに遊女にまつわる悲話が結び付いてできた伝承ともいわれている。
湊水神宮
行徳街道にでて江戸川に向かった左手にある水神さまは、子供の水難除けとして祀られている。高い堤防で川が見えないのは残念だが、かつて6月30日の水神祭にはきゅうりの初物を川の河童に供えたが、今は子供の無事な成長を祈る行事となっている。
押切稲荷
水神宮をでて真っ直ぐ行徳駅へ向かうと左手に押切稲荷がある。押切の名は、昔、葛西領下鎌田村の村民がこの地に移住し、隣村の村民の妨害を “押し切って”移住したことに由来すると伝えられる。本殿の彫刻がすばらしい。イチョウは市内で4番目の巨木だ。
珍しい石像がある・仏法山法伝寺
行徳街道へでて浦安方向に300メートルほど行き、圓明院手前の細い道を左に入ると法伝寺がある(現在本堂改築中)。手入れの行き届いた静かな寺だ。境内に馬頭観音や閻魔大王、奪衣婆(だついば)などのめずらしい石像がある。明治6年、南行徳小学校の前身・明徳小学校が開校したのがこの寺で、昭和50年に地元の有志が建てた「明徳尋常小学校開校旧跡之碑」がある。また墓地には、行徳で生まれ育ち、江戸期の葛飾ガイドブックともいうべき、『葛飾図誌手繰舟』を書いた鈴木金堤の墓がある。
目をひく五智如来像・善照寺
境内に入り目に付くのは、釈迦の悟りを五つの智慧にわけて表わしたという五智如来の大きな石仏。万治元年(1658)に青山四郎兵衛吉貞が一族の菩提を弔うために建てたものだ。鐘楼の鐘は撞座が4つある特殊なつくりで、人間国宝・香取正彦の作。墓地には『葛飾記』を書いた青山文豹子廉の墓がある。
狩野浄天がねむる・西光山源心寺
源心寺は芝増上寺の末寺で、観智国師が慶長15年(1610)狩野浄天の私財によって宇堂を建立し開山した。境内に狩野の六地蔵と呼ばれる高さ2メートルほどの六地蔵がある。これは源心寺の大檀那狩野氏が寄進したもの。最近立て替えられた荘厳な本堂を右に見て墓地に入ると奥左側に観智国師の五輪塔、その右側の五輪塔は狩野浄天夫妻の墓で、共に市指定文化財である。田中内匠の墓は浦安市当代島の善福寺にある。
吉田佐太郎の陣屋跡・親縁山了善寺
相之川バス停のある今井橋方面と浦安方面とに分かれる三叉路の一つ手前の小道を左へ入って200メートルも行くと山門に出る。了善寺は応仁2年(1468)慈縁和尚の開基で、江戸初期の行徳領の代官・吉田佐太郎の陣屋跡としても知られている。門前に聖人御逗留旧跡の石碑が、境内には旅姿の親鸞聖人像がある。吉田家は代々鎌田の庄(現江戸川区)に居を構え、佐太郎の8代前にあたる吉田源五左衛門の時、親鸞聖人が関東を遊歴、その折、吉田家に逗留したという。
お経塚伝説が残る・普門山新井寺
船橋にある禅宗・栗原宝成寺の末寺で、元和2年(1616)に能山和尚が開山。能山和尚は、真水に恵まれないこの地の様子を見て、観音菩薩に祈願しその霊告を受けて井戸を堀ると、真水が湧き出した。里人はその徳をしたって堂を建て能山和尚を迎え、寺名を新井寺(しんせいじ)とした。 “新井(あらい)”の地名はこのことから起こったとされる。本堂右側に、秋葉権現を勧請した秋葉山がある。秋葉権現は火伏せの神様で、毎年11月18日に火伏せ祈願祭が行われる。
新井寺四世・慈潭和尚は、災害の多いこの地を津波から守るため、貝に法華経を書いて地中に埋め、その塚の上で座禅したまま火定に入り生涯を終えたといわれ、「お経塚伝説」として語り継がれている。お経塚は、新井寺の裏門をでてバイパスを渡り約3分、中古車センターの裏にある。
久三郎とイネの恋物語・宝珠山延命寺
新井寺と隣合わせの延命寺の門を入って右手に5体の石仏が並んでいる。その裏に “ねね塚”と呼ばれたお地蔵さまがある。このお地蔵さまは、もと江戸川堤防の新井水門の近くにあったもの。天明2年(1782)、生実の領主・森川半弥の家臣久三郎とイネが駆け落ちし、今井の渡しを渡ろうと禁制を破って捕らえられ、二人と船頭2人とその女房の5人が処刑された。船頭らは菩提寺に引き取られたが、両人はこの地に埋められた。のちに弔う人のいない二人を哀れんだ村人たちがお地蔵さまを建てて供養したという。このお地蔵さま、村人が通るたびに首が落ちていたので “首切り地蔵”とも呼ばれている。のちねね塚は延命寺境内に移されたが、老朽化が甚だしく、近年再建された。
行徳野鳥観察舎
地下鉄東西線行徳駅から東へ1キロほどの所にある「行徳野鳥観察舎」は、宮内庁の「新浜鴨場」も含めると83ヘクタールにも及ぶ広大な湿地地帯で野鳥の楽園となっている。カモ・シギ・チドリ・サギなど約270種類の野鳥が観察されているが、この数、日本産鳥類の約半分にあたり、日本でも有数の鳥類生息地だ。
広い水面と干潟に、アシやガマが残るここは、湾岸道路と行徳の市街地に挟まれた一角とはいえ、野鳥にとっては住みよい場所なのだろう。
都市部に残された大切な湿地環境として、水鳥の休息の場として、いつまでもまもり、育てていきたいものだ。
野鳥観察舎には望遠鏡が44台設置されており、誰でも気軽にバードウォチングが楽しめる。毎月第1・3日曜日13時30分から保護区内の観察会など季節ごとのイベントも多い。
開館9:00〜16:30 休 月(月曜日が祝日の場合火曜日)・月末の金曜日・年末年始
初夏の水辺
カモやカモメは北へ去り水辺はさびしくなるが、バンやカルガモ、シギ、チドリなどが巣を作ってヒナを育てている。
夏から秋の水辺
夏至を過ぎると、鳥たちの世界では秋の渡りが始まる。9月に入ると冬鳥のカモなどが渡ってくる。ツバメやコアジサシなどの夏鳥は9月中旬、遠い南の国へ旅立つ。
冬の水辺
1年中で一番鳥の多い季節。雪や氷に鎖されたシベリア方面からやってきたカモたちの日中の休息場になっており、水辺に群れている姿が見られる。夕方になると、東京湾の浅瀬や江戸川、荒川などの餌場に出かけるカモの群れが大空に舞いたつ。
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