<第172回>
菊池 智さん
(聞き手・編集長 吉清英夫)


経歴: (きくち・とも)京葉ガス(株)会長 財団法人菊池美術財団理事長。
1923年東京生まれ。幼少時代は築地明石町の外国人租借地で過ごす。聖心女子大学の前身である聖心女子高等専門学校に進み、国文科を卒業する。第二次大戦中、父(故・菊池寛実)の炭鑛のあった茨城県高萩市に疎開した折り、徴用で来ていた瀬戸の陶工が作品を作るのを見て感銘を受け、戦後陶器の収集を始める。74年より若い陶芸作家を育てるため、発表の場としてホテルニューオータニ内に現代陶芸ギャラリー『寛土里(かんどり)』をオープン。日本陶芸を海外に紹介するため、83年にアメリカのスミソニアン博物館、イギリスのヴィクトリア&アルバートミュージアムで個人コレクションの展覧会を開き好評を博す。現在は95年に没した兄・仁の後を継ぎ、菊池グループ(京葉ガス等約40社)を率いるほか、『菊池寛実記念 智美術館』の理事長を務める。


次世代に伝えたい『現代陶芸』の作品と心

米・英で日本陶芸展を成功さす

吉清:今年で京葉ガスは創業80周年を迎えたそうでおめでとうございます。智さんはその企業グループの会長と、菊地寛実記念 智美術館の理事長として経済と芸術、対極にある分野二役を精力的にこなされているわけですが、その力の配分は大変でしょう。
菊池:はい会長職と二足の草鞋をはいておりますが、私という人間には変わりございませんので、双方に対して同等の力を注いでいるつもりです。
吉清:先日、ホテルニューオータニにあるギャラリー『寛土里』に立ち寄らせて貰ったんですが、シンプルな店内がとても印象的でした。
菊池:『寛土里』という店の名前について度々ご質問を受けますが、これは体の弱かった私の枕元で、父が話してくれた物語に由来しております。「かんどり かんべえ」という男が瀬戸物屋になろうと紆余曲折の末、最後には日本一の瀬戸物屋になるという話で、「お前は今弱くて寝ているけど、大きくなったらこういう風にがんばらないと駄目なんだよ」と言われました。その主人公の「かんどり」を取って、ギャラリーの名といたしました。
吉清:日本画の巨匠、奥村土牛さんの書いた、店内の看板は非常に迫力がありました。
菊池:おかげ様で土牛先生がお書きくださいまして、私共には過ぎた看板だと感謝しております。店を開きました当初は五里霧中で、ただただ現代陶芸の魅力にひかれてやってまいりましたが、思いがけずお客様も多く、たくさんの作家もお集まりくださり、予想を超えた賑わいになってまいりました。その花開いた余勢をかって、ニューヨークに出店し、大変な話題になりまして夜寝る間も無いほど働きました。その成功のお陰で、1983年にワシントンのスミソニアン博物館と、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館で「Japan Ceramics Today」を開催することができました。スミソニアンは二ヶ月で100万人もの入場者を数える盛況ぶりだったので、日米文化の橋渡しをしたと、レーガン大統領のレジデンスにご招待をうける栄に浴しました。
吉清:それは日本陶芸界において、まさに未曾有の事だったんですね。
菊池:当時日本はエコノミックアニマルと言われておりましたが、経済面だけでなく文化にも大きな花が咲いて両輪の輪になっているのに、経済発展という輪だけを紹介して、大事な文化を紹介しないのは片手落ちではないか、日本のためにこれをやるのは自分しかないなんて(笑)少しおかしくなったのでございますね。
吉清:一種の狂気でしょうか(笑)。
菊池:そうかもしれませんね。父は「人生は狂だ」と常々申しておりました。その時は何も分かりませんでしたがスミソニアンの為の用意を必死でしております間、ふと我に帰るとき、10メートルのハードルしか飛べない人間が12メートルのハードルを飛ぶためには気が狂うしかないのではないかと、始めて気が付きました。
時間的にも肉体的にも本当に忙しくしておりましたが、私の人生の中で一番充実感に溢れた花の時だったように思います。

明石町から始まった私の人生

吉清:智さんの生まれたのは、大震災があった大正12年ですから、生後一年もたたない内に、築地明石町の生家はなくなってしまったわけですね。
菊池:震災で倒壊した生家は英国の租借地の中の教会の隣でした。三階の母の部屋からは、黒い法服に紫色や牡丹色の房のついたベルトを締めた神父様が聖書を読みながら藤棚の下を歩いていらっしゃるところが見え、教会の鐘がなり、母は、「異国とはこういうところか」と思ったとよく言っておりました。その時はまだ生まれたばかりですから、生家の情景はその母の口伝でしか分かりません。震災で倒壊した煉瓦の瓦礫に夕日が落ちる、それが私の原風景です。
しばらくしてから、租借地は東京都-当時は東京市でした-に返還されました。
私の記憶はこの辺りから始ますから「それは、本当に昭和史ねぇ」などと皆様に言われます。
母は子供心にも、とても綺麗な人だったのを覚えております。親族にも冗談に、「おじちゃんは、どうやってこんな綺麗な人を誤魔化したんだろう」(笑)なんて、言われていましたね。
吉清:ご両親はどんな夫婦でしたか?
菊池:父と母は仲が良かったですが、夫婦と言うより親友のように見えましたね。母はどちらかと言えば学問が好きな人でございましたし、父は、動物的勘が鋭い人間でございました。性格は正反対でも、両親が言い争ったという記憶は全くございません。いろいろなことに挑戦していく父を、母はなにも言わず後ろで大きく受け止めていたように思えます。

菊地寛実の遺した事業継ぐ

吉清:12年前(95年)にお兄さんの仁社長が亡くなり、急遽智さんが企業経営を継ぐことになりました。グループのトップになられてバランスシートを睨んだりもしておられるのでしょう。40数社も傘下の企業がありその運営にも携わらないといけない。
菊池:兄が亡くなりましてから「菊池の会社をなんとかしなければならないんですよ」と書類をバッサリ渡されて、吃驚いたしました。私の心の中で「これからどうしようか」と思ったのが第一番の印象でございます。バランスシートなど若い頃に、父から「バランスシートぐらいは見られないと駄目だ」と言われ三ヶ月ほど簿記学校にいかされたきりでしたから。
ガス事業はなんと申しましても安全第一でございますから、お客様から信頼を得て安心して当社のガスをお使いいただけることが、その使命だと思っております。先日、ご存知のパロマやリンナイのガス器具の不具合が起こりました時は、もしもの事があってからでは間に合わないから、まず該当するガス器具があったなら出来るだけ早く交換させて頂くようにと申し伝えました。私にとって第一に重要なことは利用される方の安全を守ること、そして安定した供給を申し上げることです。私は京葉ガス株式会社の会長として、実際の現場での仕事と申しますより、いつも緊張感を持って日々お客様に奉仕するようになど、社内の精神面のことを主に注意させて頂いております。
吉清:その強さは、やはり父上・寛実翁の血をひいているというか、厳しい教訓からなのでしょうか。
菊池:私の父は、自分自身に一番厳しいんです。ですからまずそれをしっかり心に留めて仕事をしております。
吉清:お父様は様々な事業を興されて、最終的に京葉ガスを立ち上げますが、一番近くにいた智さんからみて、そこにいきつくまでにどんな紆余曲折がありましたか。
菊池:京葉ガスを立ち上げるまで、本当にいろいろあったようでございます。父の逸話は数多くあるのですが、中学校四年のときに学校で豚を飼って放校されたという話まで聞いた事があります。石炭や水力発電などを手がけましたがその中心に一貫して見えるのはエネルギーでございます。いつも事業の主眼に据えていたように思います。
最初は足尾銅山鉱毒事件に抗議した、あの田中正造先生に私淑し、政治家志望であることを先生にお話したところ、田中先生から「政治をやるなら私のように裸一貫でやるか、財力を自分でもってやらなければ駄目だ」といわれ、一転して実業の道に入る事を決心したと聞いております。私の大叔母は石炭に携わっていたので、その関係で石炭業を始めたのが最初のようです。父はこの大叔母から仕事について、また人の道についてなど、いろいろ教えを受けたようです。大叔母は大変男勝りな人物で、父はとても厳しく躾られたようでございますが、何か良いことがあると「ああ、大叔母に見せたかった」と申しておりましたので、心から尊敬していたのでしょうね。
その後、石炭をやりながらいつも『次のエネルギー』について考えていたのだと思います。徳川さんや、英国のジャーディーマディソン社の助力で昭和30年代に兄の仁をボルネオに行かせたのも、石炭だけでなく、インドネシアの油を覗かせたかったのではないかと思います。しかし、国境線の緊張が高まってしまったためにそれは果たせなかったようです。
吉清:そして最終的にはガスという、人々の暮らしの中心となるエネルギーに行き着くことなったわけですね。
菊池:戦前のエネルギー供給の中心でありました石炭から始まって、油も夢見たのでしょうが、果たせずに、ガスというエネルギーに行き着いたのでしょうね。その間私たちも父の浮き沈みの影響を受けないわけには参りませんでした。父のその激しい生き方の下で育ったことは、私にとって苦労したような、楽しかったような、また有難かったような、いろいろでございます。
今頃になって、父の言ったこと、母の言ったことは、ああそのとおりだな、と思うようになりました。年とともに初めて分かってくるのでは遅すぎますが。会社を継いでからは、父のあの厳しい教えがなかったら、とてもやれなかったのではないかと思います。当時は「なんてうるさい親父だろう」なんて思ったものですが(笑)。
ある方が「菊池寛実は、第一級の経済人であったけど、それ以上に利益を社会還元したという意味で、傑物である」と書いて下さいました。短い文章の中に父の姿を良く写し取って頂いているように感じられ、とても嬉しかったですね。
吉清:菊池智さんが父上・菊池寛実の企業努力の結晶である、『蓄財を社会の有意義なものに還元していく』という行為は、今の日本ではなくなってしまいつつある、企業の社会貢献行為のように思います。

巨匠・藤本能道さんとの親交

吉清:ところで、京葉ガスに限らず企業活動はチームを組み仕事を達成してゆきますが、一方芸術作家の方々というのはあくまで孤独な一人の戦いだと思います。智さんはそういう作家の皆さんとはどう接しておられるのですか。
菊池:作品を作り出すという作業は、自由のように見える反面、大変苦しい仕事なのだと思います。作品はあくまで作家個人の深い悩みや考えの中から生み出される物であり、私が直接お助け出来ることはありません。しかし彼らの悩みを聞き、私が感じた事などをお話させていただく中で、作家の方々が新たな方向に向かうきっかけをつかめるお手伝いができたらと願っております。そしていつも彼らの次の作品をわくわくしながらまっております。
京葉ガスの仕事と、孤独な世界で仕事をする芸術家の方々、両方の世界とお付き合いするなかで、私なりにうまくバランスが保っているのかどうか分かりませんが、それぞれの中でお役にたてるよう精一杯、頑張っているつもりでございます。
吉清:僕は友人と、菊池智さんの話をしたんです。作品だけでなく人物を見る眼をもっている、と。今のお話を聞いていると、陶芸作品を買うというより人を見立てて、人を育てる、つまりその 人 を買うという印象を強く感じます。
菊池:有名なスペインの建築家、アントニオ・ガウディもエウセビオ・グエル伯がいなければ、あれほど自由な創作活動はできなかったのではないかと思います。芸術家というのは、それに没頭できる環境で思い切り創作活動をしないと本当に良い物は出来てこないのではないでしょうか。
吉清:ところで智さんは、陶芸作家の藤本能道さんの作品がお好きで個人的にも深い親交があったようですね。
菊池:はい。勿論作家としても尊敬しておりますし、作品も好きでございます。私共のお店「寛土里」の柿落としの個展をしてくださったことから、お店の事も心配してくださり、「お前達は、飯を食うのに困らないのになんでこんな商売を選んだんだ。ギャラリーというのは、作家に頭を下げて、お客に頭をさげて、まったく頭の上がらない商売だ。それをお嬢様如きができるのか」
と言われて「いたします」とお答えした事を覚えております。藤本能道先生は、ご自分のことだけでなく、日本の陶芸品のことを常に心にかけられ、日本陶芸界にとって、無くてはならない方でございました。残念ながらお亡くなりになってしまわれましたが、今日、大黒柱を失った感がございます。
吉清:おいくつで亡くなられたのですか?
菊池:大正八年生まれで、73歳でお亡くなりになられました。まだまだという印象も強かったのですが。最後の展覧会は私共でさせていただきました。その時の作品は「生と死」を暗示しているような、それまでにお作りになっていた作品とは違う、それは素晴らしいものでした。
能道先生のお幸せというのは、衰えることなく大輪の花を、最後の展覧会でお咲かせになった事でございましょう。炎の中に蛾が飛び込んでいく陶板を拝見したとき、私が「速水御舟の炎舞のようでございますね」と申し上げましたところ、「これは炎舞をイメージしたものではない。陶芸という業火を得ようとして、作家という蛾が群がって来るけれど、結局みんな炎にのみこまれて滅んでしまう。作家の運命を象徴したもので、これが自分の最後のテーマなのだよ」とおっしゃっておられました。
先生に限らず、美術界で幾人かの方から、企業や会社で得られるものとは違う、人間として最も大切にしなければならない深いものを教えていただきました。そういう機会に恵まれたことは、幸せなことだったと思っております。
吉清:あの疎開先で体験した、生きた土から瀬戸物という新たな生命が生まれてくる感動から数十年。智さんは陶芸が本当にお好きなんですね。

陶芸作品は作家、その人の心の型どり

吉清:そこに智さんが現代陶芸に、こだわって熱中する理由があるのではないかと思えます。
菊池:歴史は時の権力によって塗り替えられることがあると私は思うのです。でも、美術品の素晴らしいところは、後の世にもかわることなく伝えられ、それを後世の人がまさぐって、その作品が作られた時代のことを、その人なりに思いめぐらすことができるということです。私達は過去にも未来にも生きることはできませんから、私は自分が生きている時代、現代の美を次の世代に伝えていかなければならないと常々思っているのです。すでに評価が定まった古美術品も素晴らしいと思いますが、現代が文化的に不毛な時代とならないように、同時代に生きている私たちが「今」の美を作り出し、見出す努力をしていかなければならないのではないでしょうか。
吉清:現代陶芸には、作家が精魂こめた生き生きした作品をリアルタイムで見られるという魅力があるということ。
菊池:はい。現代陶芸の面白さというのは、作家その人なのです。その人が精神的に落ちた時は、作品も落ちるし、精神が上向きなら良い作品ができます。作品を見れば、その作家がどういう心のところに立っているのかがすぐわかります。ですからまず人間として立派にならないと。人間が小さければ作品も小さくなってしまうし、人間が大きければ、大きい作品ができます。「おもしろいけど受け狙いだな」とか「自分のすべてをぶつけてきた作品だな」とか、作品からはやはり滲み出てまいります。
吉清:なるほど、精神性が作品に現れる、ですか。深くて怖いようなお話しですね。
菊池:作家の方には私の思っていることなどを、お話させていただいておりますが、私自身、このような作家の方々との深いお付き合いにより、人間として生きていく悩みや苦しさという本質的なことを常に考えさせられます。また、京葉ガス株式会社やその他の会社に携わらせていただくことにより、働いていらっしゃる皆様のチームワーク、そして企業の社会における責任や重要性などを広く学ばせていただいております。芸術の世界と、企業・会社の世界という、二つの世界に生きられる幸せと、これから得られたことごとに心から感謝し、これからもそれぞれの世界で全力を尽くして努力してまいりたいと、思っております。
吉清:今日はありがとうございました。

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