<第182回>
座談会「市川の花柳界」

(聞き手・編集長 吉清英夫)



むかし、今、これから

「芸と食の芸者遊び」を
市川の文化として賑わしたい。

『県内にひとつとなった見番』

 市川の花柳界は戦前まで、夜の社交場、文化サロンとして賑わった。
  その始まりは、明治の初め日本陸軍の下士官(最前線の指揮官)を養成する「教導団」が国府台の台地に設けられたこと。以来、昭和20年の終戦まで、野砲兵連隊など、陸軍屈指の部隊がこの地に駐屯する。

 そのため将校、兵士とその家族や、軍御用のお偉方が利用する待合・旅館、料亭がひしめき、宵闇迫るころになると、芸者衆、太鼓持ち、幇間や客を乗せた人力車が往来して、市川の街は賑わった。
  昭和の始め、国府台下と真間の見番(待合・料亭と芸者置屋の取次所)に登録された芸妓の数が200名近くあったといわれることからも、その殷賑ぶりが想像できる。
  国法が改められて、芸者遊びは「色」ではない「芸を売る遊び」となった。戦後60余年がすぎ、街の様がわりと同じように接待のあり方、とりわけ社交サロンとしての市川花柳界(料亭、芸妓)の姿も大きく変わった。
  今、路地のなかまで高いビル群が入りこみつつある市川の街並みをながめながら、これでは日本中どこへいっても同じ街並みが続く、画一文化の国になっていってしまうのではないか、なと思う。
  せめて、わが市川は、文化として、江戸、明治から受け継いできた「文化DNA」の評価と掘りおこしを`市民遊子aの力をかりてできないものか。市川花柳界文化も、そのひとつであるにちがいないな、と。
  3月の「真間回遊展」のイベントで、千葉県でたった一つとなった「市川二業組合見番」の稽古場を見、現在総勢6名となった芸者衆と話した。
  お座敷がかかろうが、かかるまいが毎週見番二階の稽古場で三味線にのせて、踊りをみがくという、このお姐さんたちが「芸と食の遊び」の伝統を守ってきてくれたのだなぁと思った。
  と、いうわけで、今回は、お姐さんたちの「お出先」料亭・白藤、栃木家、大松さんにもご出席いただいて、「市川花柳界・座談会」と相なりました。
(編集長)
お女将さんとお姐さんたちと
――今日の出席者を紹介します。まず料亭から。真間通り「白藤」の二代目・女将藤原さん。14号沿い「栃木家」五代目鈴木文子さん。京成真間駅前「大松」の二代目社長梅野さん。次に芸者衆。ベテラン順に(笑)幸子さん。広羽さん。まさ代さん。里栄さん。佳代さん。小まこさん。
  この料亭と置屋をあわせて「二業組合」というわけですね。
大松 むかしは「三業」でしたが、「待合・割烹旅館」がなくなり、今の「二業」になりました。
皆さん: 北色さんの別館とか、(中村)勘三郎さんのお母さんが経営していた待合がありましたね。
――では今、組合長をつとめる白藤の女将おかみさんから口火を切ってください。
白藤: 私、こういう商売ではないところから昭和30年代に嫁いできました。若いときずっと、この商売は私にとってむずかしいことばかりと、悩んでいましたから、お客さまの前でいつも、悲しそうな顔をしてたのでしょうね。ごひいきのお客さまがある日「忍」――美徳之基也――という字を書いて下さいました。(笑)額に入れて、今も私の宝にしてあります。
  市川というところは、貴重な旧蹟はあっても、外からたくさんの客がある観光地でもない。それだけに市川花柳界を外へむけてのPRがゆきとどきません。
  そこがむずかしいところ。
――女将さんで何代目?
白藤: 二代目です。ウチの初代は昭和5年に関西から、関東へやってきた最初の関西料理人の一人。ちょうど先代の『吉兆』さんが同じころ修業をつんだ仲間で、白藤へもきてくださいました。ウチの先代もきびしい人でしたよ。職人は一代。自分の子がいても、素質がないなら一代でやめなさい。(笑)
大松: 私どもでもそう。お金のつかい方は、自分の代でかせいだものは、みんなつかえ。(笑)
――昭和の初めごろ市川では見番に登録した芸者衆が200名近くもいたとか。
皆さん う〜ん、聞いたところでは国府台、真間、中山合わせて百数十名じゃないかしら、ねえ。
――それでもすごいよ。(笑)
里栄: 市川の芸者さんは、全部芸ができましたね。半玉さんもいましたし、人力車も往来していて、花柳界の雰囲気はすごくありました。ウチ(置屋)には若い妓がいっぱい居て、二代目の私もすごくはりあいがありました。
――では、料亭栃木家さん。五代目をつがれて、昼食をやったり、経営にも大変工夫をされていると聞いています。
栃木家: お店の前を通る方々によると、料亭をのぞいてみたい興味はあるようです。ひと昔前のお客さんとはずいぶんかわったと、ウチの母なんか、そういいます。
大松: むかしよくおいで下さった、真間川沿いの旦那衆が少なくなりました。
白藤: 私が市川にきた頃のお客さんで、東京で経営していた会社が二代目さんにかわったり。
――年をとって引越す旦那とか。
白藤: そう、お屋敷の広い方なんかは、相続税で大変ですから。明治の方の話を聞きますと、豪快で相続のこととかあまり気にしなかったようです。税の仕組みの変化が花柳界の遊び方をずいぶんかえたんじゃないでしょうか。だから私達の商売もむずかしくなってきましたね。市川の街さえも大きくかわりつつあります。
  市川南の方の工場群が消え、住宅地の中も変わるでしょうし。
――今回の「真間回遊展」は、大松さんも出展参加しましたね。
大松: はい。市の方から私どもの昭和2年建築の建物を一般公開してくださいと、要請がありました。
  昭和初めの建築は縁の下が高い、風通しがよいから建物が長もちします。たくさん見学にきました。
――夜の部の別イベントではどうでしたか?
大松: はい「芸者衆と遊ぶ」の企画をだしました。
  応募が多かったのですが、抽選で40名にかぎらせていただき、実際より半分くらいの料金で料理を食べ、三味線、太鼓も入れて、芸者衆にお座敷芸をたっぷり踊ってもらい、大好評でした。
里栄: アンコール、アンコールで、それにこたえて、私も、まさ代姐さんと張りきって楽しく踊りました。(笑)
幸子: お客さんも大喜び。
皆さん: お客さんものってきて、とび入りで小唄を歌ったり、大もり上がり(笑)
――お座敷芸はどんな踊りですか?
幸子: お座敷に入ると時季ものは必ず踊ります。
里栄: 月によりちがいますが、その季節ごとにお稽古していますから。
  むかしは、お客さまも小唄をうたって、私たちもそれで踊りました。今、そういうお客さまが少なくなりました。
小まこ: 流行歌。で、踊ったりします。
――お客さんのお酒の好みも変わったでしょう。ビール、ウィスキー、焼酎。むかしは?
幸子: そうですね。ほとんど日本酒でした。

花柳界をもつ街の奥深さ

――市川に花柳界がのこっているというこ
と、街の人たちはあまり知らない。
幸子: この前回遊展で会った方が言っていました。
「市川に花柳界があるなんて、信じられないって」
白藤: 歩いている方が、ウチの店の入口で奥の方をのぞいて、「何屋さんですか?」(笑)
看板だしていませんから。
  私も「ハァー」って、とっさに、「何屋にみえますか?」って。そしたら、
「わからないから入ってきた」と。
佳代: 通りからみたら雰囲気がちょっと違うし(笑)関心おもちになるんですね。
まさ代: まわりで聞く人もいない。
――栃木家さんは看板で「食事の店」
とわかります。(笑)
栃木家: 普段、その看板をごらんになった方が、土、日にみえることが多いです。
お祝、七五三、法事、会社の顔合わせとか。
――若くて五代目をついだプレッシャー
は?
栃木家: どうでしょう。私はどんな仕事についても大変だと思います。でも日々、やっぱり大変かな(笑)
――では、少しむかし語りを。
里栄: お姐さん方は、戦時下に挺身隊として日本パイプに行ってたって。
広羽: (笑)私、その時は若手。パイプをかつぐ仕事で、何につかうんですか、って聞きましたら、飛行機の骨組みなんですって。
大松: その頃は、私どもの店が日本パイプの女子挺身隊の寮でしたよ。
皆さん: ワァー本当ですか?
――絵に描いたような戦時下の風景(笑)
里栄: 少し時代が下がって私は当時母がやっていた置屋の二代目なんです。
  そのころ幇間さんもいらっしゃいました。
幸子: お出先さんへは、記入する台帳をもっていって、いつ、いく日に何人入ったとか書き込みました。
まさ代: お三味線もったハコやさんのこと、私も覚えてますよ、ご近所でしたから。
――幇間、そういう方が元気だと花柳界全体が賑やかになりますね。
幸子: 私たちの芸とは少しちがいますけど、座持ちがよくて、楽しく、笑わせてくださいます。お客さんと私たち芸者の間をとりもつ芸。

――皆さん楽しげによく笑いますね。佳代さんは、少し若いですが、お披露目のこと覚えてますか?
佳代: はい。私はお姐さんたちより大分後になりますが、親がこの仕事をしていたわりには、私に後を継がせる気持ちがなかったものですから。
  普通の家庭のように育っちゃいました。
  抵抗も無く出て、当時この社会のことをほとんど知らなくて困りました。
  ちょうどオイルショック(昭和48年頃)の直後くらい、社会が大きく変わっていくときでした。お三味線より段々とカラオケとか伴奏(バンド)さんが入るようになってきた頃でした。
まさ代: むかしは先輩お姐さんたちがこわくて(笑)新入りがうっかり上座に座ったりしたらおこられます。灰皿をとりかえる役とかあったり、若い妓の分際で座敷でタバコなんか喫えませんでした。
里栄: そこへいくと、先輩のお姐さんたちはキチッとしてましたね。
――そういう若い子の躾はだれがおしえるんですか。
幸子: みんな見て、習って覚えてました。ゆきすぎると、お姐さんたちから、バチッと。(笑)

若い妓 育てたい
――さて、皆さん方の後継者のことについて話しましょうか。
里栄: なりたい方がいれば、若い人育てたいとおもいます。
幸子: うっかり文句をいうと、辞めちゃったりしましたから。むずかしい面もありました。
里栄: 現実的には収入の保障なんです。玉代をふくめて月収いくらになるか。はじめからそれを問われるとむずかしい。
白藤: 最近ですと、里栄さんのところに若い人が入って皆んなでよかったね、って注目してました。
――お座敷にでてもよい、という資格試験は?
幸子: 一応、ここまでは、と。キマりはあります。
里栄: ウチから出たばかりの子が試験していただきました。踊子として座敷にでるなら「奴さん」一つでもできないとだめですので。
――そうやって若い人が一人、二人と入るようになればね。
大松: 応援者としては、街や企業や団体がある程度バックアップしてくれると助かりますね。
白藤: 市川で一時は踊りに助成金を出してくれたりとかそんなうれしいこともありましたけど、今はねぇ。
皆さん: そのご支援は、二回程つづきました。
――市川も個人、団体を中心に、また徐々に観光協会や会議所からもそういうバックアップがいただけるといいですね。
  ロータリークラブで芸妓を表彰してくれたこともあったようですけど。
  ところで、花柳界は口がかたいということについてですが。
里栄: むかしから、お客さんの名前を存じていても、「アーさん」「イーさん」とか(笑)。
  芸者さんはどんなに年いっててもお姐さんと言います。
――お稽古の内容は?
里栄: あ、今はお三味線のお師匠さんが、体調悪いので、藤間流の踊りのお師匠さんのおけいこだけです。
佳代: 今回の真間回遊展で、若い方、年輩の方問わず、花柳界に大変関心が深いことがわかりました。この土地に見番があることを初めて知った方も多かった。市川の皆さんに、これを機会にもっと関心をもってほしいと思いました。
――百聞は一見にしかずですね。
佳代: そして多くの方々に、市川の伝統ある花柳界を見て、知って、お出かけ戴きたいと思います。

――10月に、今年の市川最大のイベントとなる「WHO健康宣言都市」の国際大会が開かれますね。こういう機会に皆さんPRをもっとなさってください。外国からこのイベントに参加される人はむかしからよくいうじゃありませんか。「ニッポン・フジヤマとゲイシャ」(笑)。
  その花柳界文化を、この市川でごらんいただき、すばらしい経験をもって帰国してほしい、この機会に「二業組合」の営業、広報に力を入れて、PRを(笑)。僕は、こんなにおおらかで、コロコロ笑う皆さんにひょうしぬけしました(笑)今日は楽しいお話ありがとうございました。
  写真 文まとめ TARO