<第186回>
田中 正文さん

(聞き手・編集長 吉清英夫)


経歴:

(たなか・まさふみ) 写真家
  1959年 千葉県市川市生まれ。 大正大学哲学科卒。 出版社 「褐o済界」 勤務ののちフリーに。 1988年 ナショナルジオグラフィック誌の写真家David Doubilet氏に私淑し、 水中写真を始める。 1994年 那覇市に撮影・制作オフィス 「Studio Coral」 設立。 1998年 仕事の拠点を東京に移す。 2003年 メキシコ、 カボサンルーカスに撮影プロダクション 「SHO Production」 設立。
  著書に「パラオ 海底の英霊たち/並木書房」「オキナワを歩く」などがある。

パラオの海底に、断末魔の時が凍りついていた。

吉清: 先日まで、小樽沖の戦没船、眞岡丸の撮影をされていたそうですね。
田中: はい。眞岡丸は戦後、残存弾薬の海洋投棄をGHQから命じられた悲劇の徴用船です。投棄の作業中、乗組員が弾薬の山からパラシュートを引き抜こうとしたところ静電気がおきて引火、大爆発を起こして海に沈みました。パラシュートは、当時の困窮した時勢では貴重な絹製品でした。
吉清: なるほど。そうした沈没した船の中を撮影する仕事というのは只でさえ危険ですし、ましてや撮影場所が海底40メートルとなると、なおさらでしょう。特殊な潜水器材を使うのですか?
田中: 通常のスキューバ・ダイビング装備では、その水深で7、8分しか海底に留まれません。そこでリブリーザー(閉鎖循環式潜水器具)という器材を使っています。これは、簡単に言えば自分が吐いた排気を循環させて再呼吸する装置で、取り扱いが難しいため、随伴してもらう人たちも皆、特別な訓練を受けた日本のトップダイバーたちです。十分な準備とバックアップがあってなお、40メートルの海底は過酷な環境です。特に船内では、ちょっとしたアクシデントが死に直結します。
吉清: 資格をとるのも苦労したのでしょうね。
田中: はい。この器材の使用資格をとるためのトレーニングはフランスで受け、器材自体は英国海軍特殊潜水部隊の使っているものを取り寄せましたが、当然軍への供給が優先されますから、手に入るまではずいぶん待たされました。
吉清: とても高価な機材なんですか。
田中: わたしにはとても(笑)。そこで保険類を解約して資金にしました。というのも、この器材を使うと保険の適用外なので、加入していてもしょうがないんです。このリブリーザーと、もう一つ、フィルムの交換をせず数百枚の撮影が出来るデジタル一眼カメラ。この二つが、わたしにとって今は戦没船を撮影する上での必需品です。

すべてをうけとめてくれた海
吉清: わたしの知っている田中さんは、詩人であり、小説なども書いておられたと記憶しています。写真家として本格的に活動されるまでには、紆余曲折があったのでしょうね。世界のあちこちをわたり歩かれたと聞いていますが。
田中: たしかに、雑誌で小説や時事評論を連載していたこともあります。漫画の原作も書きました。しかし詩も評論も写真も、わたしにとっては表現媒体が違うだけで、伝えたいことのコアは共通しています。今は写真というスタイルが、そのコアにもっとも適していると判断し、写真と小文を中心に活動しています。
吉清: 写真はいつ頃から始めたのですか?
田中: 本格的に始めたのは、大卒後に勤めた出版社です。そこで文と写真のイロハを勉強する機会を得、写真のノウハウを学びました。その後は独学で精進してきました。
吉清: 写真家になったばかりの頃は、美しい海底の風景やイルカなど、海の所謂「癒し系」の写真を撮っておられましたね。
田中: わたしは、若い時分から「自分のなすべき事」を模索していて―今風に言うと「自分探し」ですね―思春期には高校をドロップアウトしたり。そんなわたしを救ってくれたのが海でした。海に癒され、また、海から多くのインスピレーションを得た。おそらくこれが原体験となって、撮影テーマというかたちでわたしを海にこだわらせているのでしょう。
吉清: なるほど、まずご自分が海によって救われたわけですか。
田中: 海外の海で写真を撮り始めた当時は、まだバブルも初期で世界は広かった。みんなが足を運んだことの無い、そしてみんなが行きたくなるような自然の海や風景の撮れる場所が、残っていた時代でした。
吉清: デジタルカメラが普及し、海外旅行も手軽になった現在から見ると、懐かしいフィルムの時代でしたね。その田中さんに、パラオでの戦没船との出会いという契機がやってくる。

大統領夫妻と潜った海で
見た旧日本軍の戦没船

吉清: 具体的には、いつごろの事ですか?
田中: 2002年、パラオ共和国で国をあげての大きな写真コンテストがありました。七カ国の著名なカメラマンが審査員を勤めることになり、パラオの海中写真を数多く発表していたわたしが、日本の代表として招待されたんです。審査員長は、私淑していたナショナルジオグラフィック誌の写真家、デビッド・デュビレ氏だったという、嬉しいサプライズもありました。
この時、ダイビングを嗜まれる大統領から直々に、 「ご案内したい海があります」とお誘いを頂きまして、そこで大統領夫妻と私とSPの四人で潜った先が、旧日本軍の戦没船の一つだったんです。わたしはその光景に衝撃を受け、同時に、言いようのない恥ずかしさに襲われました。
写真家に限らず、わたしはプロというものの条件の一つは「恥を知る心」だと思っています。そのときわたしに「恥を知る心」が働いた。美しい「表」面だけを撮っていい気になり、陰の「裏」面に目を向けなかった自分。 「ああ、写真家として、そして日本人として恥ずかしい」と。
吉清: そのショックはガーンと、大きかったにちがいない。
田中: はい。そして大きなショック、大きな出会だったからこそ、作風、テーマが180度変わる転機になったのだと思います。
その時、自分探しのゴール、ほぼライフワークに近いものを見つけたという実感がありました。人間として生まれた自分の役目は一体何なのかという命題の答えです。 「ああ、これを撮り、伝える事で、世に貢献する事なんだな」と。
吉清: 自分だけの満足ではなく、社会に貢献するという光明。今まで積み重ねてきた水中写真のプロフェッショナルとしての技術を生かせる喜びとして、戦没船写真を撮るという運命が田中さんにつながっていた。
田中: まさに運命だと自分でも思います。
パラオという島は、ただ美しいだけの島ではなく、戦没船という歴史の傷と暗部も、また持っていた。この両面を写し撮って、はじめてパラオが立体的に、正確に見えてくる。
すると今度はそこから、太平洋戦争の実態、そこで命を落とした方たちの無念や痛み、国や家族を想う心、身内を亡くした方たちの嘆きと悲しみ、そういったことが伝わるはずです。親が子を殺し、子が親を殺すこの時代、わたしたちが知らなければいけない多くのことが、この中にあるのだと思います。

米軍侵攻下、島民避難に
尽力した日本軍

吉清: パラオは、日本の開拓民も多く入植していた所だと記憶しています。16世紀にスペインが発見してからスペインの統治時代、ドイツの統治時代を経て、第一次大戦後、日本が敗戦まで信託統治領として統治しました。その統治下は長く、日本化も進んでいた国でした。
田中: 南洋政策の中心地であるパラオには、戦前「南洋庁本庁」が置かれ、官幣大社である南洋神社も造られました。日本語教育も盛んで、未だに一定以上の年齢の方は日本語が堪能です。
吉清: 1944年、6月。米軍はマリアナ諸島にまで迫っていました。統治領となっていた南洋の島を取られれば、わけても大規模な飛行場を備えたサイパンが占領されれば、日本本土が戦略爆撃機の射程内に入ってしまいます。そこで大本営はマリアナ諸島を死守するために、空母9隻の機動部隊と5万人以上の守備隊を派遣した。しかし、日本軍はそこで米軍に大敗を喫しました。また陸上戦では完全に制空権と制海権を失っているにも拘らず、海軍の伝統であった水際防衛に執着した守備隊が、米軍の砲爆撃に晒され、瞬く間に消耗して次々に玉砕していった。サイパンの戦いでは米軍上陸3日にして3万人の守備隊が壊滅してしまいます。そんな中、いよいよパラオへ向けて米軍の侵攻がはじまりました。
田中: そういう極限状態の中にあって、パラオのペリリュー島では、日本軍が島民を命がけで避難させています。一部の兵士によるアジア、中国大陸での蛮行や、サイパン戦、沖縄戦などであった住民を巻き込む戦闘や集団自決など、とかく日本軍の負の部分ばかりがクローズアップされますが、このペリリュー島での日本軍の行為が現地では今なお美談として語り継がれているという事実も、多くの人に知ってもらいたい。
吉清: そういう事実が、60年たった現在の日本とパラオの良好な関係に寄与したのでしょうね。また出自をたどれば、お互いにモンゴロイド。海洋民族同士、ウマがあったのかもしれません。

英霊の眠る海が、わたしを試した
田中: パラオで戦没船撮影を始めたばかりの頃の話ですが、滞在中、突然原因不明の高熱が出る。そのたびに入院して点滴を打たなければ治らない。これが三回続きました。ある時は、撮影を終えるとカメラのレンズが真っ二つに割れていた。またある時は、これも撮影後ボートに上がると、手がざっくり切れている。ボートは血だらけです。現地の人たちからは、 「やってはいけないことをするから、日本兵が怒っているのだ。墓暴きのようなマネは、もう止めなさい」と口々に忠告されました。
吉清: 科学的に証明出来ないんですね。原因がわからない。そこに行かせないような、不思議な力が働いた、と現地の人たちは思ったわけですね。何千年も続いてきた土着の文化が、恐れを抱いていたんだと。
田中: このまま続けていたら、そのうち怪我では済まなくなるのではと、本気で思いましたね。正直、怖かったです。機材も揃えて、さぁやるぞ、という時に拒絶されてしまった。どうすればいいんだ。病院で点滴を受けながらも、悶々と考えるわけです。
たどり着いた答えは、 「これは拒絶されているのではなく、試されているのだ」ということでした。 「おまえは本物か? ここまでされても、おまえは本気で俺達を撮りに来るつもりなのか?」と問う声が、いつもどこかで聞こえていました。勿論、その問いに対する答えは「イエス」です。
「ならば、自分は本気なのだから、恐れることはない。英霊の方々も、きっとわかってくれるはずだ。だから自信をもって進んでいこう」と決めました。傍から見れば能天気で都合のいい解決方法に映ったかもしれませんが、そう信じて撮り続けていくうちに、自分の「境地」が深まっていくのが実感できるようになった。
すると不思議なことに、すべてがとんとん拍子に上手くいくようになってきました。戦没船の沈没場所を知っている方が次々と現れたり、偶然道を尋ねた人が飛行機の墜落を目撃した島民の甥子さんで、一緒にジャングルの中へ探しに行くことを引き受けてくれたりと。
しかし決定的だったのは、記録写真集「パラオ 海底の英霊たち(並木書房)」が刷り上った時に知った「発行日」が、3月30日と印刷されていたことです。この日は、まさにパラオの戦没船の命日にあたります。
吉清: それは、わたしにも理解できる不思議ですね。写真を撮るうち次第に、英霊たちと対話ができるようになってきたと。
田中: その結果、パラオで亡くなられた英霊の方々が、写真集に至るまでのこの一連のわたしの仕事を好意的に評価してくださったと感じました。好意的どころか、ありがたいことに最後は積極的に導いてくださった。これは、確信に近い感覚です。
吉清: 計28000枚の写真を撮ったと、写真集に書いています。膨大な量ですね。その中から、写真集に載せる写真を選びだすのも、中々大変な作業だったのではないかと思います。
田中: はい。しかし実は、撮りたいもの、撮るべきものが際限なくあり、撮っても撮っても撮りきれない、終わりのない作業なのだということがはっきりしたので、ここで一段落つけておこうと、写真集にまとめました。ですからこの本は 「集大成」 ではなく、 ほんの「第一章」なんです。
吉清: 戦争の遺物と対話して撮った陸上、海中と両方の戦争遺物を撮影していますが、撮影者にとってその違いはどこにありますか?
田中: 陸上の戦争遺物は、戦車も飛行機も空気と反応して急速に劣化が進みます。ジャングルに放置されたものは、錆びと緑に呑み込まれてしまっている。一方、酸素が無いため劣化のゆるやかな海中では、断末魔の叫びを上げて沈没した艦船が当時のままの姿で海底に横たわっています。まるで、撃沈の瞬間が凍りついているかのように残っているんです。耳をすませば、乗組員の声や船体の軋む音が聞こえるようです。写真は、その声や音を伝えるものでなければなりません。 
吉清: では、最後に田中さんの写真家としてのこれからのテーマを聞かせてください。
田中: 人間の感情は、脳神経の電気信号が生み出すものだと言われています。心の働きまで、すべて科学で説明がつく時代になってきました。しかし、最後の最後のほんの僅かなスペースには、科学には絶対譲れないものが確実に残っています。これはわたしがはっきりと言えることですね。その僅かな、目に見えない「あるもの」こそ、人間にとって最も大切なものであり、それにどれだけ近接できるかが、わたしの撮影テーマです。
吉清: 科学の及ばない虫の知らせや、なんらかの予感なども昔から言われていることです。それは、田中さんがこのパラオで実際感じた事なんでしょうね。
田中: 撮影する時は、遺物が何を言わんとしているのか、その声なき声を聞き取ろうと努めています。水の密度は空気の密度の約800倍ですから、五感にふれる僅かな感覚も、空気中に比べそれだけ濃密です。人間にとって最も大切な、目に見えないある何か、を撮影テーマにしているわたしにとって、そのフィールドを水中に求めたのは間違いではなかったし、必然だったのだと今は理解しています。
吉清: とても尊い仕事をなさっていますね、田中さんは。

パラオ写真・田中正文
インタビュー写真と文まとめ TARO