<第209回>

立花 利根さん

(聞き手・編集長 吉清英夫)

(たちばな・とね)
市川市民ミュージカル実行委員長
・1937年東京に生まれ、4歳から市川に移り住む。中山小、四中を経て、高校・大学は市川を離れ、慶応大学文学部卒業後は、母、石田アヤの文化学院に勤務。英語、英詩、米国史等を講じる。アヤの死後は本年3月まで副校長として学校運営にあたる。現在講師として、高等課程の英語、専門課程の文芸で授業を持っている。


第5回いちかわ市民ミュージカル9月4・5日公演
【市民ミュージカル9年の軌跡】 2001年2月。
子供と大人が一緒になり、心と体が思い切り開放される「表現活動」を市川でしたい。演劇プロデューサー・吉原廣(61)さんのよびかけに応じた有志市民の手で準備会が結成されました。そのうねりの中で、7月「市民ミュージカルをつくろう・実行委員会」が発足しました。
第1回市民ミュージカル「いちかわ真夏の夜の夢」は2002年8月31日市民文化会館大ホールで2回公演。参加者320人、市民スタッフ550人。観客3200人。
第2回「手鞠うた風にのって」は、2004年9月12日、2回公演。参加者300人市民スタッフ500人観客3400人。
第3回「夏の光〜空に消えた馬へ〜」は2006年9月12日・13日、4回公演。参加者300人、市民スタッフ500人、観客5000人。
第4回「ASIAN BLUE〜アジアの青い空〜」は2008年8月30日・31日、3回公演。参加者260人、市民スタッフ500人。観客4000人。
この間に、2004年、2006年、2007円に3回のミニ・ミュージカル公演が行われ、このミニ・ミュージカルとともに、参加者、市民スタッフ、観客を巻き込んだ市民の自主的な文化芸術活動として全国から大きな注目をあびてきました。

 そして今回、脚本家・水木洋子さんをテーマとした「〜シネマ・ミュージカル〜 脚本家/水木洋子ワールド!」が間近にせまりました。実行委員長の立花利根さんにお話を伺います。
吉清 ここからだと市川の街を一望できますね。
立花 鬼越の先にある、子之神社の先は江戸時代、参勤交代の道が通っていたようですね。ここからだと良く見えます。市川駅南側は再開発で一帯区画整理が綺麗にできていますね。
吉清 以前、工場地帯でしたからね。
立花 でも、これだけ高いとちょっと場所 が良くわからないものですね。いつも歩いてる目線とは随分違います。こうして見ると、公共施設が多い場所と、住宅街が多い場所が結構ちゃんと分かれている。
吉清 こうやって見ると、街の変化が想像できて面白いですね。昔は国府台に陸軍の施設がありましたし、更に遡れば国府もあったと言われています。
立花 歴史的に見ても、市川はいろんな事が起こった所。里見八犬伝に出てくる、真間山弘法寺の伏姫桜もここからはよく見えますね。
吉清 利根さんのお住まいは、東山魁夷さんの家の近くでしたね。
立花 はい。戦後市川に移り住んだ水木洋子さんの自宅がある、八幡周辺も良く見えますね。
〈場所を、里帰りカップ資料館に移して〉
吉清 今回、立花利根さんが市川市民ミュージカルにかかわる事になったのは?
立花 脚本家の水木洋子さんが、私の祖父西村伊作の創立した御茶ノ水駅前にある文化学院の卒業生だったというご縁から、同じく卒業生で行徳の文化人である田中愛子さんに声をかけていただきました。
最初は「大して役に立たないよ」なんて、一歩引いていたんですが、愛子さんの情熱に押されて最初の会議に顔を出したんです。その席で実行委員全員のミュージカルにかける熱い思いに圧倒されました。また、家事や仕事をやりくりして手弁当で立ち上げにとり組む姿にも打たれました。だからこそこの企画が何年も続いている訳もわかりました。それに幼稚園生から七十代のダンサーまで居るっていう所も好きになりました。
吉清 みなさんオーディションでメンバーになった人、それを市民の中から育ったセミプロが教えるというスタイルが定着してきた。正に市民で作るミュージカルですね。
立花 学校とは違う、行先を少しずつ模索する手作りの、地面から生え上がったようなミュージカルの集団です。それがわかってから、「私で出来ることがあったらお手伝いしよう」と気持ちが切り替わって。
吉清 そんなふうに実行委員長を引き受けた利根さんですが、水木洋子さんについては、詳しく知っていたんですか?
立花 関わる事が決まってから本格的に調べました。
水木さんが何故日本女子大学校国文学部(現日本女子大学文学部日本文学科)から文化学院に移ってきたかは、このミュージカルの中で表されていますが、この頃の同級生には、東京大学新聞研究所(現東京大学大学院情報学環教育部)を創設した何が初はつ彦ひこさんがいます。それから読売新聞で人生相談などをしていた評論家の戸川エマさんなどが一学年下で在籍していましたね。
吉清 太平洋戦争の敗戦から高度経済成長期、まだまだ世間的に仕事をする女性の立場が弱かった時代に、自分の力でその壁を打ち破った人ですね。
立花 水木さんのように、自身の信念に基づいて作品を生みつづけた方が卒業生であることは、文化学院としても誇らしい事です。水木さんは自立性の高い女性でしたから、在学中もコミュニティのどこにも属していなかったようです。他人とは知的な交流を好み、群れることを嫌いました。そういう強さがあったから、彼女の書いたシナリオは偏りが無く、常に水木洋子という芯が一本通っていました。
吉清 「キクとイサム」「ひめゆりの塔」「浮雲」などの代表作にも、その姿勢が垣間見えますね。
立花 女性のシナリオライターが日本で活躍する先鞭をつけました。世代差もあり、残念ながら私は実際の交流がありませんでしたが。
吉清 僕も、30年前に取材をしたくて電話したことがありました。電話口に出た女性に「水木洋子は出かけていますよ、残念だったね」なんて言われて。おそらく、あれはご本人に違いなかったと思っています(笑)。そんな水木洋子さんも今年で生誕100年になりますね。

吉清 文化学院についてもう少し聞かせてもらえますか。水木さんを育てた「自由な校風」、は当時珍しかったと思いますが。
立花 文化学院は、早稲田大学と一緒で、どちらかと言えば中退した人の方が成功するなんてジンクスもあります(笑)。その校風のせいで、在学中にやりたい事を見つけ、飛び出して行く人が多いのかもしれませんね。ちなみに水木さんは、文化学院文学部演劇科を卒業していますし、『許されざる者』 で〈第51回毎日芸術賞〉を受賞した芥川賞作家の辻原登さんなども卒業生です。
吉清 御茶ノ水駅前に創立されて、90年になりますね。
立花 はい。開校は1921年(大正10年)という事になります。この年に落成した木造二階建てのコロニアル風の校舎は、関東大震災で焼失。創立者の一人与謝野晶子は当時執筆していた 『源氏物語』 が一緒に焼けてしまい「私の作品を燃やしてしまった!」と悲しみ怒ったそうです。その後何度かの建替えがあって、1937年(昭和12年) アーチのある旧館校舎完成。この校舎は2006年まで使われました。
吉清 現在でも、特徴的なアーチは残っていますね。往時は、その印象的な佇まいからドラマや映画のロケでも使われたと聞きます。では創立者である利根さんの祖父、西村伊作さんはどのような人物だったのでしょうか。
立花 伊作は1884年に和歌山の新宮市で生まれました。「伊作」という名前は、当時熱心なキリスト教信者だった父、大石余平が旧約聖書に登場するアブラハムの息子「イサク」から取ったようです。7才の時両親を1891年の濃尾大震災で失い、伊作は母方の西村家を継ぐことになりました。祖母は山林業を営む資産家でその資産を使って文化事業を展開することになります。
しかし彼がより影響を受けたのは、アメリカ医学留学から帰った叔父のドクトル大石誠之助でした。伊作は誠之助から医療の知識などを教わる傍ら、思想的な影響も大きく受けたようです。
しかし、徐々にアナーキズムに傾倒していった誠之助は大逆事件で、処刑。
吉清 それで親類縁者にも、監視がついたと聞きます。
立花 はい。そこで伊作は社会主義的な活動からは距離を置き、文人との親交を深めることになりました。
陸の孤島のような紀州の新宮に、画家の石井柏亭や歌人で文学者であった与謝野鉄幹、与謝野晶子夫妻も招いており、文化学院の下地は徐々に築かれていったようですね。また、重要無形文化財技術指定保持者の富本憲吉と親交が深く、富本が伊作を尋ね、一緒に陶芸をした事もあるようです。この時期、伊作は、建築、陶芸、モダンアートなど様々な分野で活動しました。(新宮市の自邸〈平成22年4月に重要文化財に指定される〉や文化学院校舎の設計などを自ら行っています。)
ただ、やはり地方だけでやってるのは物足りなかったようです。谷崎潤一郎などと一緒に学校にできる敷地をさがし、駿河台の現在文化学院がある場所を見つけたようです。そこを学校にしなかった場合でも、陶芸や芸術、文化人の集まるホテルを作り、サロンにするつもりだったと聞いています。世間に発露できる場所でありつつ、お上から隠れる場所を作りたかったと。その後、その教育思想、信念は文化学院に受け継がれるわけです。そんな気風を貫いたから不敬罪で、戦時中は2年間学校が閉鎖された時もありました。
吉清 利根さんはその伊作さんの直系にあたるわけですね。そのDNAを受け継いでいる、という実感はありますか。
立花 母は仕事が忙しい人でしたから、祖父に預けられて一緒に住んでいました。古い校舎の一室で寝起きしていたんです。戦後でしたから、祖父の五反田の家も焼けていましたからね。
そんなわけで、私は祖父とはずっと一緒に暮らしていました。可愛がられました。ですから、性教育にも踏み込んだ考えをもってた(それは著書、『学生と性教育』 『性愛の書』 『女と貞操』 『恋愛学校』 などからもわかりますが)。その影響も受け、一方で母は、19歳から3年間アメリカに留学し、清教徒的な考えを持っていましたから祖父の私への教育にかなり反発もしたようです。
そんなわけで、私は頭の中で祖父に話すこと、母に話すことを上手く仕分けていました(笑)。
吉清 現在利根さんは文化学院の講師として関わっているのですか。
立花 はい。今年の三月までは、副校長をしていました。私の娘も文化学院で教えています。90年という長い歴史のある文化学院ですが、時代と共に経営者も変わり運営方針も変わっています。以前のように、教養や感性を重視し自立性の発露を促して将来を在学中も模索させる方針(ある意味、非常にのんきな学校でした)から、よりプラグマティックに入学当初から将来を見据えた教育に移り変わっています。教育機関も時代にあわせて、変わっていくものなのでしょうね。

吉清 ところで前に戻りますが、第5回市民ミュージカルの練習もいよいよ佳境にはいってきました。携わった感想はいかがですか?
立花 はい。吉原廣さんが水木洋子を、市川市民ミュージカルの主題として選んだ事も、私に声をかけて頂いた事もとてもうれしかったです。官ではなく市民から起こった文化事業、これは水木さんの精神にもあっているんじゃないかと思います。
市民の中から湧き上がる情熱があり、それをくみ上げてミュージカルにまとめる人がいたということ。これだけ古く難しい題材をシナリオにして、200人からの人数を集め、更にそれをスタッフが支援する。
それは単に演者となって人前で自己表現したいという事ではなく、市川市を盛り上げるなんとも言えない皆の力だと思います。そこに私が突然来て乗っかるというのは、おこがましいんですけれど文化学院の卒業生である水木洋子さんを取り上げるのであれば協力しなくてはいけないな、使命感を感じています。
吉清 吉原さんも「市民ミュージカルを発起することで唯の市民から、市川の市民になったなという実感があった」と言っていました。ミュージカルのコンセプトである"市民三世代"も良いですね。
立花 私は4歳から市川に住み、途中東京や海外に住んだこともありますが、総合すればかなりの年数を市川で過ごしたことになります。でも、いままで視線は常に東京だったんです。それが今になって、水木さんが文化学院に入学してから80年ほどたって、市川市と水木さんを結びつけるチャンスに乗っかれるのは申し訳ないぐらいラッキーな事ですよ。
市川市は、外に向けて中の活動を発表するのがあまり上手くありません。是非そこを改善してすばらしい活動を発信したいですね。
吉清 9月4日、5日市川市文化会館大ホールでいよいよ上演ですね。ぜひ5カ月間の苦しい練習の成果を体感しに、僕も客席から参加したいと思います(笑)。
文・写真 TARO