『あやくん、しっかり』
井上 あや(娘・エッセイスト)
どんなに頑張ってみても、父の文章にはかないっこない。この往復書簡が、私の唯一文章の教室なので、私は書いています。
父には上手くかわされる。でも父から受けとる文の中の信号を、私なりにきちんと掴んでいます。
面白い人を記憶の中から探そう、それを上手に、この「上手に」というのがそもそも驕っているのですが、うまいだけの文章なんてつまらない、それより以前に、書ける力もないので、私なりに可笑 お か しな人や心に残る人を記憶の中から探してみると、どの人もおかしな人ばかりなのでした。
この頃、よく子供の時の夢を見ます。まだ父が40代の頃でしょう。私たち三姉妹は小学生か幼稚園児で、とても懐しい夢です。子供は皆そうなのでしょう。寝る前の儀式のようなものがあります。私は翌日学校に着て行く服を枕元に置き、布で作った人形を隣に置いて「神様との直通電話」と名付けた何かのトロフィーに一人芝居で1日の報告をしていました。何年か菅野の教会の日曜学校に欠かさず通っていたのです。
私達三人は年令が近いので何かしら眠りつけない日に、お喋りを暗闇でしていました。真下の部屋で仕事をしている父は、ちょっと娘たちをからかってやろう、と思ったのでしょう。週に1度、期待して待っていることが、どちらからとも分ると、毎日のように頭からタオルを被って、アゴの下から懐中電灯を自分の顔に照らして、ぎしっぎしっと不気味にゆっくり階段を上って来て時々立ち止り、「ふっふっ」と奇妙な声をさせながら寝付かない私達をおどろかしにやって来ます。不定期に、ギシッギシッと足音が近付くと、妹はもう泣き出しそう。私は姉と怖いながらもワクワクしていました。足音が一番上と思われる段を上ると、少し間を置いて、時には横から時には真下から、手を鉤形にして、にたりと笑い「早く寝たまえ、あと数分したら君たちに呪いをかけるぞぉ」と引き戸を開けたり閉めたりして、遊んでくれました。
引き戸の前の「間」と、うすぼんやりユラめく懐中電灯の不規則さ。妹は「やめてっパパっやめてっ」と半狂乱になって私も姉もギャーギャー騒いで、勿論その後は仲々寝付けない。裏の空地から風の音もして。それも楽しかった思い出の夢です。父の仕事が忙しくなる頃でしたが父は、そういうイタズラを、ずいぶん仕掛けていました。
すべての疑問を父に聞くような子供だった私は、いつも父にくっついては、あれこれ問いました。父は丁寧に答えてくれて、それが本当でもデタラメの面白解答でも私は満足でした。
今でこそ、おしゃれに気を遣うようになったものの、私は父が入浴しているのを見た事がない…いや1回くらいは「あ、お風呂入ったんだ」と思うことはあったけれど、下着姿も見た事がないし寝こけている様子もついぞ見ていないので、今、一番おかしくて面白くて変な大人を書こうとすると、どうしても記憶の中の父が、ぬっと表われてしまうのです。
「どうして人は死ぬのかどこへ行くのか」「どうして雲はあっちこっち形を変えるのか」小学校2・3年生の私には父が教科書みたいなもので、それは幸せなことでした。
ひとつの事に拘こだわる、そのしつこさ、心の暗い要素をいつまでも考えて抜け出せない性格。そして霧が晴れるように突然、全部を忘れて川風に吹かれて伸びなんかしている自分。年をとるごとに困る。父は猛勉強する。納得するまで調べる、追求していく。父の芝居の中の「間」と一転して悲劇が喜劇に変る素晴らしさ。すると、世界は魅力的な劇場にもなるし、思い方ひとつで何もない寂しいものにもなる。 この頃は父の舞台の芝居の本も手に取って読んでいます。父は今、老いた、というが、体に蓄えた力を漲らせて、まだ仕事を、よりよい仕事を芝居を創っている。まるで、千里眼のように私は父の「あやくん、しっかり」という強い、ちょっと恐いテレパシーを背中に感じています。地に足をつけて頑張らなくてはいけません。うん、がんばるよ、まだまだ甘いんです私は。
『辺縁系と新皮質』
井上 ひさし(父・作家)
ヒトの赤ちゃんが生まれてくるときの、脳の重さは平均三百六十グラム。これはよく知られた事実ですね。
ちなみに、ヒトにもっとも近いといわれているチンパンジーの赤ちゃんの誕生時の脳の重さもヒトと同じように、平均三百六十グラムです。ここからしばらく数字がつづきますので、ゆっくり読んでほしいのですが、チンパンジーの脳は、そのあと平均四十グラムほどふえて、平均四百グラムで成長が止まります。つまり、平均四百グラムの脳で一人前になる。見方をかえると、チンパンジーの赤ちゃんはほとんど完成された脳を授かってこの世に生まれてくる。
わたしたちヒトはどうでしょうか。ヒトの脳は二十歳前後まで成長をつづけて、平均一千三百〜四百グラムくらいになります。つまりヒトの成人は、生まれたときの約四倍も大きな脳を持っていることになります。このへんの事情も広く知られているはずです。
ヒトの脳の、いったいどこがふえるのでしょう。いろんな説がありますが、このあいだ対談した脳生理学者から、次のような説明をうかがいました。そして直感的に 「この先生の説は正しい」 とおもいました。
誕生時のヒトの赤ちゃんの、平均三百六十グラムの脳が、ふつう「爬虫類脳」といわれていることも知ってますね。呼吸を維持する、食物を取り入れて、やがていらなくなったものを排泄する。お腹が空いたら泣く。気持が悪ければやはり泣く。生きて行くのに必要な力(本能といってもいいでしょう)、これをわかりやすく爬虫類脳と名付けています。
ところがヒトの赤ちゃんは、自分の周囲からコトバのシャワーを浴びているうちに(年間平均七十万回も赤ちゃんへの呼び掛けが行なわれているそうです)、辺縁系というところと新皮質というところを発達させて行く。脳が成長するとは、この二つの部分が増えて行くことなんですね。
そしてここが肝心なところなのですが、辺縁系は感情を育て、新皮質は知識や理屈を蓄えて、それらを処理して判断を行なう。
有名な実験があります。羊が好きそうな餌を二つ、二ヶ所に並べておく。餌の間隔は百メートルです。
そうしておいて、お腹を空かせた羊を、二つの餌のちょうど真ん中に連れてくる。どちらの餌も五十メートルの彼方にある。このかわいそうな空腹羊は、どちらの餌に行くのか。じつはどちらへも行けない。
「右にも左にもおいしそうなご馳走がある。どっちも同じ距離…。右に行こうかな。いや、左のほうがいいかな」
右か左か決めかねてうろうろしているうちに、空腹羊は哀れ、飢えて死んでしまう。
なぜ決められないのでしょうか。じつは羊は辺縁系がよわい。よわいというより、ほとんどない、といっていい。つまり、感情というものがないので決断できないのです。
このへんの理屈は、恋愛に置き換えて考えるとよくわかります。たとえばここに美しい娘がいる。彼女の右には家柄もよく給料も高い美男子がいる。左には田舎出の稼ぎもあまりよくないブオトコがいる。新皮質(理屈や常識)で判断すれば、彼女は美男子のほうを選ぶにきまっている。ところが彼女はブオトコに恋をしてしまう。「だって、なんだか感じがいいんだもん」という他人にはわからない理由で。このように、わたしたちヒトは、最後の最後は感情で決断するイキモノなのです。
こうなると、わたしたちは辺縁系を、すなわち感情を養うことが必要になります。生き生きとした、豊かな、真っ当な感情があれば、その分だけすばらしい決断ができるからです。
芝居にしても同じことです。いろいろと調べて、調べたことをうまく配置して、器用にまとめ上げた戯曲がある。でも、こういう戯曲は「よくできている、理屈もわかる。けれどもなんだかもう一つピンとこないな」でおしまいです。つまり新皮質だけで書いているからです。
よく調べよく考えうまく書いて、お客さまの新皮質に働きかけながら、その上でさらにお客さまの辺縁系を鋭く撃つ。お客さまの感情を揺りうごかす……そのとき、その芝居は傑作になります。そこでわたしたち書き手は、いつも辺縁系を鍛えています。じつはこれがなかなかむずかしいのですけれども。