書く事って苦行なのですね

井上 あや(娘・エッセイスト)

 とても苦しい夢を見て、ふっと目が覚めたら、外はもう冬の朝です。
 私にとっての苦しい夢というのは、とても暑い日に坂道ばかりの、どこか知らない家路を、凄く急いで歩いている。そして、まるで知らない家の(でも夢の中では、どうやらそこが私の家らしい)全然知らない子供の為に大急ぎで御飯を作らなくちゃならなくて、その全然知らない子は、どうしてか私の子供みたいなのです。何か無理矢理ニコニコして、今やすっかりお料理なんかしたくないと心に決めて生活している私は、笑っているのも献立を考えるのも本当に厭で夢の中でお腹が痛かったり冷や汗をかいたりしている。そういう同じ様な夢を今朝も見ていて、身体的に苦痛を感じるので「なんでだろう」と思ったら磁気付き靴下なんか履はいて寝てしまったからなのでした。
 心のどこかに考えたくない事やら心配事があると、本も読めないし何を食べても味がしないしとても辛いので、こんな作文のような、文章を書くことになってしまいました。
 父のように何十年も「書く事」やその為の集中力(父の云う作品世界に棲み変る程の生活の中での線引きや覚悟など)は、どれ程の苦行か、と思います。だから体にはどうか気をつけて欲しい、と心底、そう願います。きっと父からしてみれば、余計なお世話だと、早く自活してくださいよと、そう思い願って少々ウンザリして、もう若くない娘の私を、よそに置きたい、と思っているのは私にも分っているのですが。
 新品の磁気付き靴下は人からのプレゼントで本屋さんの健康マニュアル本コーナーで立ち読みしたbとにかく体を温めること、そうすれば万病が治るa的な、結構トンデモ本だったものの中に、まったく同じ、この磁気付き靴下が紹介されていたのでウッカリ履いて眠ってしまって、病気らしい病気をしたことの無い私も、調子に乗り「あったかい。いいな、これ。このまま寝てしまえ」と。そう思ったら、厭な苦しい夢を見て…もう堂々巡りの、文章になってしまう。さっさと、その靴下を脱いで今、これを書いているのです。
 私は読みたい本があると、どうしても、我慢ができないので、例えば洋服箪笥の奥の方に隠したりします。でもこの方法は、表紙がチラチラするし微妙に正しくない。早起きをしてしまったので、暗い朝に「早く書いてしまえ」と。机に向って、少しずつ騒がしくなる朝を恨めしく思いながら、きっと、この文章を何となく良い形に直してくれる月刊いちかわの編集長や、そのスタッフの皆さんに、ご免なさい、ご免なさいと思う。心の隅での心配事や、どうしても読みたい本を優先させてしまっています。
 まだ漢字が読めなかった昔、ほんの2、3日雨が降ると近くの国分川が溢れてしまっていた頃の事を、ふっと思い出しました。元々晴れた日があまり好きでない私は、「台風が近付いてくるぞ」と聞くと、ワクワクして「今度の台風はどんな台風だろう」不穏な風に揺られる木や草や雲などを近所をうろついて見ていたりしたのです。木も草も、あちこちから吹いてくる不意打ちの様な風も、思い切り暴れているようで、手を水平に伸ばして、自分も風の仲間になったような気分で、くるくる廻ったりしていました。
 夜には家がガタガタ音を立てて、その頃に、よく読んでいた「空飛ぶベッド」という絵本の挿し絵のように、私と、この長方形の布団一式とだけ宙に浮かばないかなぁ楽しいだろうなぁなどと考え、毛糸で編んだ袋に、お菓子だの大事なものを入れて胸にしっかり抱えて眠ったのですが、翌朝、目が覚めると小鳥は鳴いているし部屋の隅々まで、憎たらしいような光がチラチラしていて、大人達が、「よく晴れたわ、よかったよかった」なんて言って「台風一過の青空よ」とか楽しそうに家の仕事をしているのを呆然と眺める。それでも、「まぁいいか。台風の一家は空で大喧嘩をして又、どこかへ行ったのだな、でも昨日の台風の一家は、どんな家族だったのだろうか」などと考えていました。
 台風一過、というのは、漢字をあてないで聞くとタイフウイッカ、たいふういっか。台風の一家だと私は長い間、思っていました。けっこう長い間、思っていました。こじつけみたいですが早く、自分の心配事や読みたい本や、陽の短い冬の日を、取り戻したくて、書いてしまったけれど、何か・ ・をするって何でも変なのだなぁと。父は作品世界と人間の体を持つ苛々感とで、ずっと苦しいような清々しいような仕事をしてきて、他の人達も、やはり同じで、ものすごく偉いな、と、思っている冬の朝です。

市川の読みっこ運動

井上 ひさし(父・作家)

 綾くん、わたしが新作の芝居にかかっているあいだずうっと、この欄を書きつづけてくださってありがとう。おかげさまで、とてもいい戯曲ができました。
 あなたの記憶にあるかどうか、戯曲に取りかかっているあいだ、わたしはいつも「社会的に死ぬ」ことにしていました。新聞も週刊誌も読まない。読みたい本などは一冊のこらず書棚の奥に仕舞ってしまいますし、映画もテレビも観ない、電話にも出ない、散歩もしない、ただひたすら仕事部屋に閉じこもって、作品の世界へ潜り込む。この世へ戻ってくるのは食事をするときぐらい。つまりこの世から作品世界へ住み替えてしまうのがいつものことでした。ところが今回は、いつもと少し事情がちがっていました。市の文化振興財団と読売新聞東京本社が、市内の加藤新聞舗や実行委員会のみなさんの協力のもとに、毎年、菅野小学校で催している「読みっ子運動」のことが、どんなときも頭のどこかに引っ掛かっていました。
 −読みっ子運動。
 この言葉をどこかで耳にしたことはありませんか。これは、子どもたちの読書運動なのですが、やり方がとても変わっていておもしろい。噂を聞いて全国から問い合わせてくる方がたも多いので、参考までに、そのやり方を箇条書きにしてみましょう。
  まず、夏休み前、菅野小学校のお子さんが、「わたしはこの夏休みに、これこれしかじかの本/絵本を読みます」と宣言するところから、すべてが始まります。
  すると、この宣言に応じて地域のみなさんの中から、「その本なら、わたしも一緒に読みましょう。きちんと読めたら、奨励金を払いますよ」と名乗り出てくださる有志がおいでになります。この有志をサポーターと呼んでいますが、サポーターと報奨金、この二つが、読みっ子運動のおもしろいところです。
 夏休みのあいだ、お子さんとそのサポーターは、指名した本/絵本をよく読みます。サポーターをやろうとおっしゃってくださる方はご年配の男性が多い。これから世の中へ出て行く子どもたちと、世の中の酸すいも甘いも噛み分けたおじいさんが、一冊の本/絵本をともに読む。ここがすばらしい。知らないうちに世間知が子どもたちの心へ流れ込みますし、同時におじいさんは子どもたちの柔らかい心にふれて若がえる。何人ものおじいさんが、そうおっしゃっていました。
 この読書運動の山場は二つあります。
 第一の山場は、夏休みの終わりごろに、菅野小学校で開かれる発表会です。大きな教室に、参加児童全員が輪になって坐り、みんなの前で順番に、どんな内容の本/絵本か、自分はどう読んだかを発表するのです。見物席にはお父さんやお母さんもいます。そんな中で、自分の意見を述べるのですから、たいへんな圧力がかかって、低学年の子などは泣きだしたりする。そんな子をうしろに控えていたサポーターのおじいさんが励ましたりして、思わず涙ぐんでしまうほど感動的な場面が展開して行きます。そして、その子の発表が終わると、サポーターさんが、以前に約束していた報奨金を渡してくださる。その子は、そのお金を大きな募金箱に入れる。今年は、その金額が十九万円に達しました。
 第二の山場は、参加児童全員による、お金の使い方の相談会です。大人は一切、口を出しません。子どもたちだけで何に使うかを決めます。「病気で入院している子どもたちに本/絵本を贈ろう」、「盲導犬協会に寄付をしよう」、「街路樹を植えよう」などなど、じつにさまざまな議論が行なわれます。
 読みっ子運動のことが、少しはおわかりになりましたか。子どもは本/絵本を読むことで読書の楽しみを味わう、そして本/絵本を読むことでお金を得て、それをそっくり世の中の役に立ちそうなところへ寄付する、地域の子どもたちとご年配の方たちが本/絵本を通して知り合いになる……いろんな効用があります。もちろんうしろで動いてくださっている実行委員会 (こちらはご年配のご婦人が多い) のみなさんのご苦労なしには実現できない読書運動ですが、こんな難事業をやすやすとやってのけている市川市の底力に、わたしはいつも敬服しています。 ちなみにこの読書運動は、わたしが考え出したものではありません。ヨーロッパで古くから行われている運動を、読売新聞と市内の有志に紹介しただけです。